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【夏休み特別企画】Debian 不滅の情熱: イアン・マードック情熱とビジョンの物語

【夏休み特別企画】Debian 不滅の情熱: イアン・マードック情熱とビジョンの物語

【夏休み特別企画】Debian 不滅の情熱: イアン・マードック情熱とビジョンの物語

今回は特別な物語をお届けします。それは、Linux の普及に携わった一人の男性の物語です。

Linux をご存じの方であれば、すぐに「リーナス・トーバルズ」氏の名前を挙げることでしょう。確かにトーバルズ氏の功績は多大なるものです。

しかし当初の Linux は極めて単純で、機能や実績において優位性のあるオペレーティングシステムとは言い難いものでした。そんな Linux を現在のような近代的な OS へと発展させた人物がおります。

今回はその人物に焦点を当ててみました。

ぜひ最後までお付き合いいただけたら幸いです。

第1章: 夢の始まり 

1991 年、フィンランドの青年リーナス・トーバルズは、ヘルシンキ大学の教室で、新しい Intel 80386 CPU を搭載したコンピュータを目の前に、オペレーティングシステムへの情熱を燃やしていました。

その時代の、オペレーティングシステムといえば UNIX 。

しかしその UNIX はとても高価で、一般人が簡単に手を出せるものではありませんでした。また、UNIX を模倣した MINIX は、教育用という縛りから機能が削がれ、使い手の自由を制限されているものでした。

そう、当時の世界には、手軽に使うことが出来る UNIX 系のコンピュータシステムが存在しなかったのです。

トーバルズの心の中には、手の届く価格のマシン上で UNIX 互換の OS を動かす夢が生まれていました。彼の目指す新しい技術は、高価なワークステーションの OS とは異なり、手の届く価格で手に入るマシン、いわゆる PC で動く OS だったのです。

多くの人々が PC 上で動作するフリーな UNIX 系の環境を求めて、書店の棚に並ぶ教育用 OS、MINIX のページをめくっていました。その中で、トーバルズは一歩を踏み出し、MINIX のメーリングリストを舞台に、彼の新しい創作「Linux」を世に公開しました。そして、GPL ライセンスのもと、全ての人々にその扉を開放したのでした。

当時の Linux は Intel の 32 ビット CPU を搭載した PC でしか動作しません。しかしその時代、ちょうど 32 ビット PC/AT パーソナルコンピュータが街角に姿を現し始めていた頃です。くわえて GPL の魔法により、このシステムは誰もが手を加え、改良することができました。

そんな OS を誰もが注目し、多くの開発者たちが、より高みを目指し、その手で Linux カーネルを育て上げていきます。彼らは、すでに開発が始まっていたオープンソースの GNU の部品と Linux を繋ぎ合わせて行き、ついには実用的で自由なオペレーティングシステム「Linux」が誕生を迎えるのでした。

そして Linux カーネル・メーリングリスト (LKML) が登場し、改良に参加する有志はそこに集まることになります。

https://lkml.org/

時は遡り 1973 年、場所は西ドイツの静かな町コンスタンツ。一組のアメリカ人夫婦の間に、一人の子が生まれました。名前は「イアン・アシュリー・マードック (Ian Ashley Murdock) 」。

マードックは後に Linux を大きく変えていきます。

1993 年、マードックはパデュー大学で、多くの時間をコンピュータと過ごしプログラミングの奥深さに魅了されていました。そしてある日、彼は運命的な出会いを迎えます。

Linux と GNU という哲学との出会いです。

この哲学は、ソフトウェアを自由に使い、研究し、改変し、配布することができるというもの。Linux と GNU の哲学に触れたマードックは、ソフトウェアの自由という考え方の重要性を深く理解し、それを広めるための活動を始めることを決意しました。

しかし、当時すでに存在していた最初の Linux ディストリビューションの一つ SLS (Softlanding Linux System) は、バグがとても多く不具合が頻発するうえ、メンテナンスもお粗末でした。

そんな SLS に不満をいだいたマードックは、開かれた Linux ディストリビューションの夢を全く新しい Linux ディストリビューションに託します。

第2章: ビジョンの誕生

マードックは、ソフトウェアの自由を実現するための新しいプロジェクトのアイディアを思いつきます。その名も「Debianプロジェクト」。

ちなみに、彼がこのディストリビューションの名称を、ガールフレンドの名前 Debra と自身の名前 Ian  から Debian としたのは、Wikipedia にも綴られている逸話です。

Debian は、完全にフリーなソフトウェアから構成されるオペレーティングシステムを目指していました。しかし、ただのオペレーティングシステムを作るだけではなく、彼にはもう一つの大きなビジョンがありました。それは、「Debian フリーソフトウェアガイドライン」の概念です。このガイドラインは、ソフトウェアが「自由」であるための基準を明確に定義し、Debian プロジェクトの哲学の核心となるものでした。

1994 年、マードックはこの新しいオペレーティングシステムについての概要を「Debian マニフェスト」として公表し、その中で、このディストリビューションの保守は、Linux および GNU の精神に基づき公開された手法で維持されることを求めました。このガイドラインの存在により、Debian はただのオペレーティングシステムではなく、フリーソフトウェアの哲学を体現したプロジェクトとして、多くの人々に支持されることとなりました。

こうしてマードックの情熱とビジョンが、Debian GNU/Linux という偉大なプロジェクトを生み出すこととなるのです。

第3章: Debian 始動 

イアン・マードックのビジョンに共感したボランティアたちが次々と集まり、Debian プロジェクトは正式に始動します。彼らは異なる背景やスキルを持ちながらも、共通の目的のもとに協力し合いました。新しいプロジェクトを始めることは決して容易ではありません。彼らは多くのハードルと挑戦に直面します。技術的な問題、資金の調達、そしてチーム内のコミュニケーションなど、さまざまな課題が彼らを待ち受けていました。

しかし、これらの挑戦は彼らの情熱を燃え上がらせるだけでした。一つ一つの問題を解決し、プロジェクトを前進させるために、彼らは夜を徹して作業を続けます。

こうして、1994 年から1995 年にかけて ver. 0.9 のシリーズが初めて公開されました。この期間、フリーソフトウェア財団の GNU プロジェクトが支援を行いました。

1995 年には、インテル i386 以外の環境に対しての対応も開始されることとなり、1996 年に最初の ver 1.x が公開されました。

ちなみに、コードネームは ver.1.1 から、映画トイ・ストーリーのキャラクター名をコードネームとして採用しており、現在まで至っているのはご存じの方も多いかと思います。

第4章: 成長の時代  

Debian は、その高い品質と哲学により、多くのユーザーからの支持を受けるようになりました。そして、Debian がサポートするアーキテクチャは増加し続け、多様な環境での利用が可能となりました。

この成功は、コミュニティ内での Debian の評価をさらに高めました。多くの開発者やユーザーが Debian を選び、その結果としてコミュニティは急速に拡大して行きます。

そんな折、1996 年、マードックはプロジェクトリーダーを退きブルース・ペレンズ (Bruce Perens) が Debian プロジェクトの新リーダーとなります。同年、開発者の一人であるイーアン・シュッスラー (Ean Schuessler) が、利用者との「社会的契約」の提案を行いました。この提案はすぐにメーリングリストで議論が行われ、「Debian社会契約」と「Debianフリーソフトウェアガイドライン」にまとめられました。

また、ペレンズは Debian を公式に支援する非営利組織「ソフトウェア・イン・ザ・パブリック・インタレストSoftware in the Public Interest (SPI)」の設立にもかかわり、1998 年には、ver 2.x が公開され、パッケージマネージャの APT が初めて導入されました。

さらに Debian GNU/Hurd という Linux カーネル以外の開発も始められ、1999 年には Debian を母体とするディストリビューションも現れ始めました。

このように Debian は目覚ましい成長を遂げていきます。

しかし、この急激な成長は新たな課題をもたらすこととなりました。コミュニティの大きさと多様性が増すことで、意見の対立や方向性の選択が難しくなっていきます。

第5章: 試練の日々 

Debian の急速な成長は、プロジェクトの内部での意見の対立や、外部からの様々な圧力を生むこととなりました。方向性の選択や技術的な決定について、多くの議論が交わされました。

2002 年 7 月には、Debian 3.0 woody が公開されましたが、その公開後の ver 3.1 (sarge) まで、およそ 3 年という長期に渡る空白期間が存在します。主な理由として、2.2 potato から 3.0 woody 以後にかけてパッケージ数が 2 倍程に増加、また、それまで 6 種類のアーキテクチャへの対応が、woodyでは 11 種類のアーキテクチャへの対応と、その対応環境も増加したため、公開直後からこれに伴うバグが飛躍的に増大した点があります。

とりわけリリース・クリティカル・バグ(ソフトウェアのリリース前に修正すべき重要なバグ)が事実上すべて解消されない限り公開できません。このようなバグは、ソフトウェアの主要な機能に影響を及ぼしたり、セキュリティ上の問題を引き起こす可能性があるため、ソフトウェアが正式にリリースされる前に修正されるべきとされます。

しかし、パッケージメンテナンスを担当する人の中には、バグの修正に対して熱心でない人もいます。特に、ある言語だけで問題が起きるバグに対して、その言語を知らない担当者は修正に乗り気ではないことが多いです。つまり、開発者の間で温度差があったのです。

これは、ボランティアが中心の Debian コミュニティならではの課題とも言えます。

しかし、長くなっていく公開間隔について、当然フリーソフトウェアコミュニティから疑問の声が上がりました。Debian の 3.1 sarge リリース直前には、実際に Debian 開発者の 1 人であったマーク・シャトルワース (Mark Shuttleworth) が主導して Ubuntu というプロジェクトを派生させます。

Ubuntu もまた積極的な開発を行い人気を高めていきます。

しかしマードックは、この Ubuntu の人気が Debian 派生のディストリビューションのために良い兆しだとは考えていませんでした。それは、Ubuntu 用に作られたパッケージが 3.1 Sarge 上で動作しないことが多いことを挙げています。

これらの問題が重なり、混乱した状況が公開日程をさらに遅らせるという影響を与えました。これらの試練は、Debian プロジェクトにとって大きな挑戦となりました。しかし、この困難な時期が、コミュニティの真の力を引き出すこととなるのです。

2006 年 6 月、ようやく公開された Debian 3.1 sarge では新規のインストーラーが導入され、実に 40 ヶ国語にも及ぶ言語に対応するようになりました。

新しいインストーラは高度な導入方法に対応しており、ハードウェア検知能力に優れるため、Linux のインストールに不慣れなユーザーでもインストールできるようになりました。また、このインストーラは約 40 ヶ国の言語で、ただの直訳ではなく完全なソフトウェアレベルでの国際化を実現しています。

さらに、インストールマニュアルと包括的なリリースノートはそれぞれ 10 と 15 の言語に翻訳され公開されるようになりました。

コミュニティのメンバーたちは、共通の目的と哲学を持ち、困難な状況でも結束し合いました。この結束の力が、Debian をさらなる高みへと導く原動力となりました。

第6章: そして伝説へ 

Debian の哲学と品質は、世界中の多くのシステムで選ばれるようになりました。サーバーからデスクトップ、さらには組み込みシステムまで、Debian は多様な環境で信頼されて使用されるようになりました。

マードックはその後、2006 年に「Free Standards Group」の技術トップとして選ばれ、「Linux Standard Base」の主席にもなリました。Free Standards Group は 2007 年に Open Source Development Labs と合併し「Linux Foundation」が設立されましたが、その後も同じ役職を続けました。 

しかし同年 3 月に Linux Foundation を退職し、サン・マイクロシステムズに入社。OpenSolaris の開発に関わり、特に GNOME や GNU 由来の環境、ネットワークベースのパッケージ管理システムの部分で貢献します。

サン・マイクロシステムズでは「プラットフォーム創造 (Emerging Platforms)」部門とコミュニティー・マーケッティング部門の副社長を務めましたが、2010 年 2 月にサン・マイクロシステムズがオラクルに買収されると、その直後に同社を離れます。

2011 年 から 2015 年、Salesforce.com の子会社、Salesforce Marketing Cloud でプラットフォーム・デベロッパーコミュニティー部門の副社長を務め、2015 年 11 月に Docker 社に入社するも、翌月の 12 月 28 日にサンフランシスコの自宅で亡くなっている姿が発見されました。

Linux に関わる全ての人が、この残念なニュースに心を痛めたことを記憶しています。

今もマードックが存命だったらと思わずにはいられません。

Debian という偉大なプロジェクトの背後には、創設者イアン・マードックの情熱とビジョンがありました。彼の遺産は、Debian プロジェクトを通じて今も生き続けています。

人類共通の偉大な資産といえる Debian の未来は、世界中のコミュニティのメンバーたちによって築かれていきます。彼らの手によって、Debian はさらなる進化を遂げ、新たな伝説を築いていくことでしょう。

参考サイト

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